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もっと自由に、もっとたくさんの人のもとへ

「誰でも飛べる」が夢のその先

鳥のように空を飛びたい、飛べたらいいな…飛んでみたいな…
まるでバイクに乗るように、エンジンを始動させ。
大空に舞い上がる…空中散歩を楽しむように、好きなところで止まって、景色を眺めることだってできる…。
しかしまだ、・誰でも飛べます・になるためにはまだ少し時間が必要です。それなら、今すぐに使える所から、始めまてみませんか。

規制の多い日本では農作業から

手始めは農作業のお手伝いでしょうか…
地上2~3メートルをゆっくり飛びながら、肥料を撒く、種子を蒔く、農薬を撒く…。ある若者が楽しそうに始めました。農業の空中機械化の始まりです。能率は地面を歩く農業の300~500倍になるでしょう。もうこの若者は農地見回りを空からしか考えなくなることでしょう。空からならば斜面も山奥の田んぼも畑も別に苦労なく面倒がみられます。
日本には10ヘクタール以上の耕地を有する農家が600,000戸、1ヘクタール以上の農家が900,000以上あるのです。将来的には空からの農業経験者が1,000,000人になる事も考えれます。彼らは散歩もドライブも道路だけでなく、空から直線的に目的地を目指すことになるでしょう。

都市交通から災害救助まで無限に広がる可能性


GEN H4 災害救助バージョン

もちろんこのヘリの持つ可能性は農業従事者だけのものでなく、無限にあるのです。特に現在の日本のように、都市部において慢性的な交通渋滞を抱えながら大きな滑走路やヘリポートも確保できない状況でも、もしGEN H-4が規制の枠を乗り超え自由に飛べる日が来るなら、都市交通でも充分に機能するものになっていくでしょう。また非常に小型のため運搬がしやすく、一台のトラックで多数の機体を運ぶことも可能ですから、大地震など都市機能がマヒするような災害時には車が入れるところまでヘリを輸送し、それを現地で組立て、車が入り込めない災害の中心部に空中から入っていくといったコミューター的役割を果たす事も可能なのです。農業から波及し、林業、水産業等への利用はもちろん、海浜、山岳パトロール、レスキュー等々使用方法は次から次へと、使われる皆さんの考え次第で無限に広がって行くことでしょう。

趣味の域からいつかはスクーターのような存在に

GEN H-4に乗って一旦地面を離れると、そこにはフリーな空間が広がり、地上の狭い道路はいつしか大空の300米道路に変わります。
今は趣味や楽しみの役割が大きいこの乗り物も、たくさんの皆さんに使われて初めて安全性も使いやすさも今のオートバイ、スクーターのようになり、誰でも使えるものになるのです。

ドラえもんのタケコプターの世界も、もうすぐそこ!

私たちもGEN H-4ために、愛好家クラブを組織したり、法的な環境整備に邁進してまいりますが、たくさんの需要や要望があってこそ航空法などの規制緩和が進み、さらに自由になっていくのです。
そしていつしかこの小さな乗りものがたくさんの方の生活に欠かせないものとなっていことでしょう。
そう、夢は次から次へと広がっていきます。
タケコプターが行き交う、ドラえもんのような未来の世界が もうそこまできています。
最後に…鳥のように空を飛ぶ夢は必ずや実現するのです!

2008.5.25

GEN H-4はレオナルドの生誕の地イタリアのヴィンチ村に招かれて、イタリアの地で2日間に渡りフライトを披露して来ました。
レオナルドの考えたように、より簡単な仕組みで空を自由に飛べるのだということを実証して来ました。
イベント当日、町の郵便絵葉書も100人以上のスタッフの昼食に用意されたワインラベルもGEN H-4が描かれていて感激でした。

開発経緯

『何とかならないか、を何とかする会社』として40年働き続けてきた『エンジニアリングシステム株式会社』のオーナーだった社長柳澤源内が、自身最大の夢、「空を自由に飛びたい」を何とか実現させようと、1980年代半ばに空飛ぶ道具の開発を思い立ちました。そして夢は現実となり、一人乗りヘリコプターGEN H-4が完成しました。それでは開発の契機から夢が実現する2000年迄のゲン・コーポレーションの歩みを、空中散歩で見てみましょう。

1985年 開発の契機


GEN H4のエンジン

70年代、社長柳澤源内は、モーターサイクル、特にエンジンの開発設計者としてスタート、その後、超小型エンジンを多数世に送り出した後に、エンジニアシリング・システム株式会社を設立、幾多の会社の自動化と開発品の製造を手伝う。21世紀までにあと15年のこの年を契機に、21世紀までに超軽量小型高性能エンジンを製作、空へ挑戦することを決意する。最初はエンジンから。世界一軽くパワーの出るエンジン、一人を空に持ち上げることのできるエンジンから作ろうと試みる。

1988年 エンジンの開発と機体の工夫


GEN125強制空冷エンジン

最初は、紙切れに書いた走り書きだった。最も困難な型とも知らず、二重反転の型のカッコ良さをイメージし、小型と安全を求めて同軸の二重反転型を選んだ。 確かに推力を全て揚力に変えるために羽根もコンパクトにできることは分かった。 決意から3年後の年末、軽くて小型、しかしパワフルな「GEN125エンジン」開発成功。
その後、同軸二重反転のフライング・ソーサー型の荷物運搬を開発。
固定ピッチ型ローターヘリの操作方法の一つであるローター全体を傾けるテストを開始。

1991年 エンジンの力試し

水平対向型、2サイクル125cc、10馬力、3.5kg、思い通りの超小型軽量エンジンができた。プロペラをつけて背中を押すようにして、自転車に乗ってみた。時速100kmも出た。 翌年1992年には、ハングライダーに積んで空を飛んでみた。空も飛べた。

1995年 H-1浮上に成功


初飛行 1995.12.10

空を散歩するには、空中で止まりたい。夢は膨らみ続けた。 一号機は30馬力、直径3mの二重反転ローターを傾斜させるように工夫して、ヘリ免許を有する友人の試乗により、自社の敷地内で浮上に成功した。その場安定性も割合に良好、アクセルコントロールだけで上下移動はできた。
GEN-H4は最も単純で安全でメンテナンスゼロを目指してローターは固定ピッチを採用している。これは、世界中のヘリコプター技術者が追い求めているが、今もって実現できないでいる方式である。

1996年 動力ユニット基本形決定

上下移動はできるが、どうやって前進、後退、ヘリコプターを意のままに操縦するか。羽の回転面を傾けた方向に進むはず、ジャイロコプターのような操作方法がある筈だ。エンジンごと傾けてしまえ・・・この考えにたどりつくのに、かなりの時間を要した。ハングライダーは125ccエンジン一基で空に浮くのに。ヘリコプターは3ユニットの直列エンジンでも力不足だった。
96年始めよりヨー・コントロールのための差動トランスミッションを開発、同時にパワーアップのためにエンジンを3ユニットから4ユニットとしてパワープラントを整え、パイロットの頭上に置くことにより振動の発生をなくすことにも成功した。

1997年 ヨー・コントロール解決

アメリカ・オシコシへの旅行途中、電動モーターを使う方法を決意するとともに、ジャイロからの信号により、ヘディングを一定に保つ方法も同時に決めた。

1998年 アメリカでデモ飛行成功


オシコシ・エアベンチャーの写真

オシコシ・エアベンチャーのウルトラライト用飛行場にて初飛行を行い、千人を超える観客の前で、デビュー、8分程度のホバリング、ヨー・コントロールの効き等を披露し大いに注目を集めた。新しいものへの挑戦に喝采を惜しまない米国人の姿勢に大いに感激した。

1999年 オシコシでの飛行

2000年 カッパーステート(アメリカ)エアショー出展、飛行

2001年/2002年 サンファン(アメリカ)エアショー出展、飛行

2002年 ヘリジャパン宇都宮で日本公式披露 

もっと詳しい開発経緯はこちらをご覧ください(PDF)

鳥のように空を飛びたい

空とぶじゅうたんからはじまった空への憧れ


代表取締役 柳沢 源内

子供の頃に『空とぶじゅうたん』の話を読んでもらって以来、「空を飛びたい」という思いがありました。 その後、大戦の最中に迎えた少年期は、身近に飛行機乗りが何人かいて、かなり感化されておりました。『きけわだつみのこえ』に出てくる上原良司は、叔父にあたり、その姿は小学生の私には眩しい限りで、実にカッコイイ存在でした。 何よりも、松本は民間航空機のメッカで、河川敷で飯沼飛行士の先生のような人が飛んでいたんです。それに松本市内から現在の松本空港のある神林あたりまでは、戦争中に三菱をはじめ飛行機メーカーが疎開企業として全国から集まっていました。だからいまだにポンコツのプロペラがそこらへんに落ちていたりします。そんな影響もあり、私は小さい頃から飛行機乗りが憧れで、飛行機は身近な存在、小さな頃から「自由に空を飛びたい」と強く思っておりました。

エンジンへの夢と創造


学生時代の写真

空に魅せられていた私は、エンジンの開発を勉強したいと志し、迷うことなく早稲田大学理工学部機械工学科に進みました。空への強い思いがあったので、飛行機のエンジンをつくる会社でアルバイトをしたこともあります。アメリカの基地から借りてきたエンジンを分解して、それをモデルにT-3というエンジンの羽の計算をしていました。というのも朝鮮戦争の影響でアメリカの飛行機を修理する工場が必要になったために、昭和28年頃には、日本も飛行機をつくることを許されていたんです。三菱、川崎、富士重工、石川島などのタービン屋たちがみんな動員されてエンジン開発をしていましたが、私もその中の一人だったのです。 その後、東京大学内燃機関実験室に在籍しながら、アルバイトで自動車会社にも出入りし、車のエンジンも勉強していました。その頃、モノづくり的にはアメリカ系がどんどん堕落していき、ドイツ系が良くなっていくのが見えたんです。就職を考える頃になると、BMWの完全コピーをつくろうという会社へ入社し、技術者の道へ本格的に足を踏み入れました。

ヘリコプターの開発の技術の原点を叩き込まれた修業時代


その頃にスケッチして作ったオートバイ

この会社はもとは靴下を編む紡績機械を作っていた会社。戦争中、軍用機や戦車のエンジンを設計したなどという強者エンジニアや、製造の現場のたたきあげの職工さんたちから「大学出てもこんなこともできないのかね?」などと笑われたり怒られたりしながら、旋盤から工作機械の扱いまでを徹底して叩き込まれました。そしてこの技術がGEN H-4の開発の力になったと思います。ハイテクとローテクという言葉がありますが、私はローテクを極めた技術者こそがハイテク屋だと理解しています。一見飛行機やヘリコプターは最新技術のハイテク屋でつくられているように思われがちですが、実はローテクのかたまりなんです。完成された技術、鍛えに鍛えられた技術でかためないと危なくてしかたないんです。

一人乗りヘリコプターの開発


レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチ

一人乗りヘリコプターは私のライフワークです。開発の過程では、学者や研究者の八割が「こんなの、飛ぶはずがない」という意見でした。実際に飛ぶようになるまでには13年かかりました。失敗を重ね、随分と苦労しましたが、アメリカで先行販売し、おかげさまで日本でも売れるようになりました。実はこのタイプのヘリのコンセプトは昔からあったんです。私がやるまで日の目を見なかっただけなんです。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチは、既にこのようなヘリコプターを考えていました。もっとさかのぼれば、中国やギリシャでも考えられていたんです。技術者の先人が「未来は自分の先にあるのではなく、自分の後ろにあるんだ」と語っていますが、同じことをやろうとした人は、いっぱいいるんです。ですから、「俺が発明した」なんて言えるひとは世の中にはそうはいなんですよ。

技術の組み合わせと改良の妙で実現させた夢


社長の構想のスケッチ


いままでお客さんから「何とかならないか」という相談を受けて、世の中にないものをつくってきましたが、自分で発明したものはないんです。先にものべたように、技術者というのは既にある確実な技術を組み合わせたり、改良したりしているだけ…でもその先に新たなものづくりの原点があるんです。技術が生まれた背景を知り、何故うまくいかなかったのか失敗例からも学んでいく、このような技術の伝承が「ものづくり」の創造につながると思います。 今は理論さえ間違っていなければ、かなりのことができる時代で、「ものづくり」をするためには恵まれた環境です。だから、私に言わせれば「できません」というのはゼイタクかズクなしですよ。私は動くものなら何でも作る自信があります。 やりたいと思ったことはやれるし、思ったらできる。夢は実現させるためにあるんだ。こういう私の信念がGEN H-4の開発につながり、その考えが会社事体にも浸透しています。

ドラえもんのタケコプターのような存在がこれからの目標

スクーターを運転するような簡単な操作で自由に空をとぶことができるGEN H-4ですが、実際には様々な法規制があり、活躍のシーンが限られているのが現状です。規制緩和を目指すとともに愛好家を増やし、災害現場での活用など、活躍の場を広げ、みなさんにとってドラえもんのタケコプターのような存在になってくれることが目標ですね。

ズク…長野県の方言の一つ。根性、面倒くさがらずにやる気、根気、気力、気合、などに似た言葉。